第15回講演(2/4ページ)

 

●望星丸に入港許可。歴史的な出来事
 なぜこのようになったかはいろいろ意味があって、ちょうどこの頃冷戦が終わりつつある時期です。しかもゴルバチョフがウラジオストク演説というのをやりましたし、その後、クラスノヤルスク演説をやりました。その演説の中にはウラジオストクを開放して文化と学術とスポーツの拠点にするという、そういう内容だったんです。「しめた」というんで交渉したわけです。ムードはウラジオストク開放に向かっていたんですが、これに対して抵抗したのがソ連の太平洋艦隊でした。これがなかなか「うん」と言わないんです。しかし、やっと太平洋艦隊も許可をして入港できるようになりました。
 ところが入港しようとしても特別地域なんです。ロシア人も入れない。日本で言うと横須賀とか佐世保みたいなものだったんです。それよりもっと厳しい所ですから、ソ連人もビザがないと入れない軍港の地域だったんです。
 われわれもビザを取ろうと申請しましたがやっとビザが出発の前日におりました。おりたビザはウラジオストクに入るビザで、ロシアに入るビザではない。ですから、ウラジオストク以外には行けないんです。そういう特別なビザで東京のソ連大使館も、このビザは彼らとしても初めてだと言っていました。
 小樽から出発したんですが、通る航路を完全に指定してくるんです。小樽から出航して日本海に出たら、ウラジオストクまで直線で向かえばいいんですが、ウラジオストク入港の仕方がややこしいんですね。まず、ウラジオストクの南の方まで一度行ってくれというんです。これが第一ポイントです。そして第二ポイントを通過して、第三ポイントに入ってそこで待てというんです。非常に遠回りをさせられるんです。あとでわかったんですが、この地図上でナンバー1から10までの間で色分けした区域がありますね。この地図上の区域を通らないように、ということなんです。この区域は、ロシアの原子力船の廃棄物を捨てるところなんですね。捨てるのがわかるとまずいんでしょうね。あとになってこの地域がわかりました。このようにして何とかウラジオストクに入港すべくでかけて行ったわけです。
 さて、日本海の夕日はとてもきれいなんです。「波高し」ではなく波も静かでした。この状態でウラジオストクに向かっていきました。昨年は新しい望星丸で行きました。これはスピードが速いので中途半端な時間に着いてしまう。真夜中に着いてしまうんです。しかし、その当時の望星丸はスピードが11ノットで、向かい風だと4ノットくらいに落ちてしまう船でしたから、時間がだいぶかかりました。
 こういう状況下で航海を続けたわけです。
 まず、ウラジオストクに夜中についたんですが、指定された航路で入っていくと、まず最初に出迎えられたのが、高速艇なんですね。すごいスピードでやって来て、横にベッタリとくっついてなかなか離れようとしない。この船は沿岸警備隊の船らしいんですが、何も言わないでただ横について伴走しているだけなんです。何となく気持ちが悪かったんですが、機関銃を撃つわけでもなかったんで、とにかく歓迎のためにお出迎えいただいたんだろうと、勝手な解釈を考えざるを得ない、そういう状態でした。
 向こう側に見えたのはロシアの山でした。そうこうするうちに今度はウラジオストクの方からすごい船が出てきました。まだその当時はソ連太平洋艦隊の基地でしたから、カラ級というミサイル巡業艦なんですが、これが出てきたんですね。ここには軍艦がたくさんいるんですが、われわれを出迎えてくれたのは、みなさんビックリするかもしれませんが、港についてみると、一号岸壁という太平洋艦隊司令部の前面の港を用意してくれていました。着いた時に岸壁に旗が立っていました。「ソ連極東地方へどうぞ」というものです。若き日に汝の思想を培え、体力を養え、知能を磨け、これがちゃんと書いてあって、これがさがっていたんです。
 なぜこうなったかというと、東海大学の卒業生がいるんです。その連中がおそらくつくって掲げてあったんだろうと思います。そして、しかも大歓迎でした。軍隊は関係なしに民間のみなさんです。ウラジオストクは美人の多いところです。白系ロシア人ですから、とにかく美人が多い。民族衣装で出迎えてもらいました。

 

●ソ連共産国に大きな風穴を開けた望星丸
 非常に長い間、閉ざされていたウラジオストクが、具体的に民間の船である東海大学の船によって、穴をあけられたということになるわけです。小さな穴だったかもしれませんが、その後、徐々に穴が大きくなって、現在ではどこの船も入れるようになったというわけです。ただし、軍港であったところは、現在では軍港はありません。
 船がいないことはないんですが、当時いた艦はたくさんあるんです。紹介すると、クレスタ2級という、ミサイル巡洋艦もいましたし、フローティングドックで修理している、カーラ級のミサイル巡洋艦もいます。さらに、バルサム級の情報収集艦、それからミサイル発射支援艦、駆逐艦、フリゲートなどたくさんいます。さらに奥に、空母ノボロシスク、そのまた奥が潜水艦基地になっています。真っ黒に塗ってあるのがズーッと並んでいます。
 このように、まさに太平洋艦隊の基地といった印象を受けるくらい、たくさんいたわけです。写真を平気で撮らしてくれたので、私も写真を撮りまして、分類して地図の上に入れてみました。すごいのができました。当時は各国情報局が欲しがるような地図です。全部軍艦です。種類も判別できました。この中に東海大学丸二世は、ここに着いたんです。一番いい所です。その奥が軍港でズーッと軍艦がいるわけです。これだけいれば、とにかく太平洋艦隊なんですね。日本の海上自衛隊より多いと思いますし、特に、中に空母がいますから戦力としては遥かに強力な戦力だったわけです。1989年10月5日現在です。
 昨年行った時には、軍艦はありませんでした。遊軍艦はありましたが、壊れてスクラップになる軍艦しか残っていません。他の港に移動してしまったわけです。
 どこに移動したかという事なんですが、カムチャッカ半島に移動したんです。ペトロハバロフスクカムチャッキーという町がありますが、大韓航空がその上を通って撃墜されたところです。そこに基地を移したんです。潜水艦の基地も移してしまったわけですから、完全にウラジオストクは開放されたと言ってもいいだろうと思います。
 そういうことで状況がだいぶ変わってきたところへ、東海大学の船が穴をあけたということなんですが、ロシアの人々に言わせると「東海大学の船が穴をあけたからウラジオストクは開放されたんだ」というようなことを今でも極東帰りの先生達は言っています。
 日本海を平和にするという目的をある程度達成できたのではないかと私は思います。この話は関係者以外は知らない話なんです。

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