第15回
1997.12.22 シャトレー・イン横浜

東海大学総長 松前 達郎 先生


第15回講演(1/4ページ)

 

近くて遠い国

 

●日ソ基本条約が北方領土問題の始まり
 みなさん、こんにちは、最近、国際関係の話が急に大きく展開しようとしています。とりわけ、日本とロシア、これについて、橋本、エリツィン会談がクラスノヤルスクで行なわれました。それまでの日露関係は、こう着状態にありましたが、橋本首相が行って話し合いができたことで、新たな展望が少しは見えてきたような気がします。
 ところが橋本首相はカナダでの に先にロシアを入れるカードを切ってしまいました。本当は少し温存しておいて道具に使う方がいいのですが先に切ってしまったからしょうがない、これから先どうなるか、1999年までにかけて、おそらく、大きな展開がない以上、日露関係はまた元に戻ってしまうだろうと思っています。
 東海大学の船が昨年もウラジオストクへ行きましたし、数年前も2回ほど行っています。きょうは、日露関係を主体として、その話を中心に進めていこうと思います。
 みなさんもウラジオストクは十分ご存知だと思います。ウラジ・オストーク。つまり東方を征服せよと言うことです。日本から見て、日本海のどこから行っても同じくらいの距離にあります。ロシアにとってみると東の方に出る玄関口であることは間違いないわけです。歴史的には日本との関係が非常に深く、1860年に海軍基地としてウラジオストクが構築されたことに始まるわけです。ところが、その後八年くらいたちますと日本人が行って住んでいます。2〜3,000人だと言われますが、明治初年には在住しています。そして、1871年になると、長崎とウラジオストクの間に海底電信ケーブルが敷設されているんです。今では全然役に立ちません。
 しかし当時は、ウラジオストクと長崎に電信ケーブルができたことは画期的なことだったんですが、残念ながら、日本が敷設したのではなく、デンマークが敷設したのです。ブレンノーザンという会社です。今でもあります。そこが金を出して敷設したのです。
 そして、その後五年くらいたって、日本の貿易館が開設されました。日本とロシア、当時はソ連ですが、没岸貿易が、1876年にすでに始まっていたことになります。しかも、その後長崎との間に定期航路ができたのです。今からみますとロシアのウラジオストクとの交流は盛んに行なわれていたということなんですね。私たちの感覚から言うとウラジオストクなんていうのは、堅く閉ざされた港であると思ったんですが、そうではなかったんです。
 その後、東洋学院という教育機関が設置されています。今で言いますと極東大学という大学で、東海大学は交流をしています。
 そして、シベリア鉄道が開通しました。この辺まではウラジオストクはまさに、ロシアの東への進出の拠点だということで、次々と開発されてきたわけです。ところがその後、1905年になると日本海海戦になるんです。対馬沖海戦です。第二バルチック艦隊がヨーロッパのフィンランド湾の奥からわざわざでてきました。遥かアフリカの南をまわって、航海してきました。約1年くらいの航海だったと思います。そしてやって来たのはいいんですが、対馬沖でほとんど沈められてしまいました。
 そうこうするうちにロシア革命が起こる。それにもかかわらず、日本は総領事館を設置します。その辺から、朝鮮との関係が深くなって、朝鮮独立運動の拠点にもなりましたし、あの10月革命、ロシア革命が起こる。そうこうしているうちに1918年頃になりますと、各国がこのウラジオストクに目をつけ始めるんですね。
 1918年には日本の陸先隊がここに上陸します。いわゆるシベリア出兵です。2万ぐらいの日本の軍隊が上陸します。これは日本だけではなく、アメリカも来ました。その他各国の軍隊が先を競って上陸しました。ウラジオストクの重要性を認識しているのかどうか、緊迫した状態がここに出てまいります。
 日本軍の方は10月には徴兵をして、極東共和国がウラジオストク中心にできました。ロシアの人民革命によって解放されてしまう、こういうことがおこったわけです。そして、1925年には日ソ基本条約が締結されます。
 国際的な条約は、このへんが北方領土の問題を含めて根拠になっています。このような歴史がウラジオストクにあって、これ以後は、外国の船が一切入れない秘密の非常に重要な拠点として、軍港としての役割をこれ以来担うようになってしまったわけです。
 ここまでは歴史なんですが、日本軍の居留軍のいた写真があります。着物を着て、ソフトあるいはハンチングなどというものをかぶっています。こういう時代がありました。日本人がいちばん多く住んでいたところの写真もあります。さらに、日本を始め各国の軍隊がここに上陸したときの記録も残っています。日章旗を先頭に目抜き通りを行進している陸先隊、いわゆる海兵隊と言うのでしょうか、それに相当する写真もあります。
 日本だけではなく、他の外国軍隊も同じところを行進している写真もあります。行進して、その時はドンパチ戦争をやったわけではないんですね。駐留したという感じになります。中国の青島とかと同じように、主権を一部で獲得しようというのが狙いだったわけです。 
 その当時の各国の憲兵の服装を全部並べて写真を撮ったのがあります。日本だけはわかりますが、あとはどれがどこの軍隊だかわかりません。六カ国の憲兵が勢揃いしているところの写真です。こういう記録も残っています。先程、行進したと言った通りの、昨年の写真ですか、同じところへ行ってみましたら、レニンスカヤ通りとなっていました。

 

●戦略的に重要な三海峡
 このような状況で、ウラジオストクを外国軍隊が占領してみたり、あるいは一時、反乱がおきてみたり、極東共和国の軍隊が制圧してみたり、いろんな歴史が繰り返し行なわれてきました。
 それではウラジオストクがなぜ重要だったのか、日本とロシアの関係でも一番大きな意味を持っています。それはウラジオストクから外洋に抜ける道がいくつかありますが、特に海軍の艦船、これが外に出ていくためには、ひとつは対馬を通ってくる。もう一つは津軽海峡です。津軽海峡は現在、どこの国でも通行を許可していますから、軍艦も通れる。あとは宗谷海峡があります。この三つしかないんです。間宮海峡があるじゃないかと言われますが、あそこは全然浅くて、せいぜい10メートルもないですから、軍の艦隊は通れません。しかも凍結します。
 この三海峡は重要で、これを通らないと日本海へ出られないことになっています。
 そう言うことで、中曽根首相の時は三海峡封鎖論なんていうのもできました。そうなると、もっと大きな目で見ると日本の国家は不沈空母なんて言うことになるわけです。まったくウラジオストクを封鎖するのは日本がちょうどいい、こういうことでアメリカは戦略的にも日本が非常に重要になるわけです。
 そうなると、日本海をまず平和な海にしてしまわないといけないという考えを、松前前総長も私も持っていたわけで、それならウラジオストクへ強引に船を持っていって入港してしまえと。ところが簡単にはいかない、東海大学の船は大砲を備えているわけはないんで、とても戦闘的な態度で入るわけがないんですから、平和の中でウラジオストクへ入港したほうがいいということで、モスクワに4回ばかり行って、海軍大臣とかいろいろ交渉しましたが、なかなからちがあかない。入港の許可が出なかったんです。ところがあまりにしつこく言ったものですから、1年半くらいかかりましたが、やっとウラジオストクへの入港が許可になりました。しかも東海大学の調査船がウラジオストクへ入港することを許可するという電報がちょうど夏でした。夏休みに入っている時で学生はいない、空船で行くわけにはいかない、それで大学院の学生と職員を乗せて、ウラジオストクに入港するために行ったわけです。
 その時の新聞に、ソ連の軍事拠点がやっと西側の船の入港を許すことにした、と出ています。
 考えてみるとシベリア出兵以降、日本の船が入った事はないんです。ですから、5、60年ぶり、それ以上になりますね。日本の民間の船は入ったことがないんです。非常に大きな出来事だったわけです。

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