第39回講演(4/4ページ)
内村鑑三は武士道を必ずしも評価していない。同じころに書いた新渡戸稲造の「武士道」との二つは似たようなことを言っているが、私は「代表的日本人」の方がいいと思っている。10年くらい前から学生にゼミで読ませて課題にしている、そして感想を問う。学生たちもいい感想を書いてくる。
中江藤樹の言ってみれば陽明学、儒教の中でも非常に教条的な朱子学、これは官学だが、統治するには非常に便利だ。幕府のご用学問としては便利だ。ところがいささか行動的、修正主義的なのが陽明学だ。これに心酔すると三島由紀夫のように腹を切ったりする。
中江藤樹、弟子の熊沢蕃山、このような人たちが言っている「徳」と言うのが実は日本で古来言われていたもので、私はもう一度、このことに思いを致さなければいけないと思う。だが、非常に難しい。
情報がボーダレスになってきて、日本だけで何かすることができなくなった。そういう時、日本ではどうすればできるのか。教育が何処まで「徳」や「善」と言うものを教えることができるのか。藤原さんは日本の影響力を強くだしている。「日本は国家の品格をもって世界に発信して感化するんだ」と言うが難しい話で、西欧米人は自分たちの価値観を絶対視している。1500年代の大航海時代以来、彼らが世界の覇権をとっているので彼らの科学、技術は世界に冠たるもの、人類に冠たるものと思っている。その時限で勝負をして納得させなければ言うことを聞かない。だから、例えばノーベル賞を日本人が毎年とり続ければ、日本人の言うことを聞くかも知れない。しかし、今の時代は「善が必要だ、徳が必要だ」と言っても、何処まで納得してくれるか分からない。
私は、日本発の影響力は過大視しないで、我々の足もとでしっかりやることが大事だと思う。そのために、教育の責任と限界と言ったが、私は8年間、大磯町で教育委員をやり教育の現場を見ている。先生の影響は大変なものだ。
内村鑑三が中江藤樹のことを書いた時、世界に発するとして英文で書かれている。「日本と言うのはプロフェッサー、教授と言う言い方は元々しない。先に生まれた人と言うことで『先生』で、年齢が逆転している場合もあるが知識を先に知っていると言う意味にとって欲しい。先に生まれた人と言うくらいの呼称でよぶ、日本人は非常に謙虚だ」、このように書いている。
このことを考えると、教育、先生の責任は重大だと、私は思っている。
「教育基本法」を自民党と公明党が一致して、今国会に提出するようだ。「教育基本法」は戦後すぐに制定されたものだ。この基本法は決して悪いものとは思っていない。だだ、戦後の新憲法に則って民主的な国家だとするところが取り挙げられて教育の義務化とかがあるが、強調されている。ところが道徳的なことが必ずしも示されていない。その辺が不満だと思うが、やる気になればできる。
教育勅語があった。「親に高誼、兄弟に友誼、そして夫婦相和し、朋友相信じ、恭劍己を辞し(節約をして謙虚にやっていこう)、学を修め、業を習い・・・・」と、大変にキチンとしていることを書いてある。
この時代の勅語でなくていい。今の時代の民主的な精神を考えれば教育基本法を改正しなくても十分にやっていけると思う。
最後に、
佐藤一斎の「言志録」、なかなか面白い。江戸時代末期の本だ。この人も陽明学に朱子学から転向した。内村鑑三、新渡戸稲造、それからルース・ベネディック「菊と刀」、ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」は日本が経済主義に到ったことへの記録を示していて、日本人を知るためにはなかなか面白い本だ。
日本が戦後一番に決意したことが、経済主義でいくことで、これが今に続いている。池田勇人がフランスに行った時、ドゴール大統領に「トランジスタの商人がきた」と揶揄された。私はその当時「日本人は食っていくためにはトランジスタの商人でいいじゃなか」と反発した。ただ、精神的、哲学的なことからすれば、ちょっと商人、町人国家になり過ぎたかなと思う。商人、町人をバカにする訳ではなくて、それなりの商道徳があったはずで、それがどうも弱くなっているように思う。
どうもありがとうございました。
この内容は2006年4月26日ホテル横浜ガーデンで行われた講演を記録したものです。講演者の話の趣旨はなるべく忠実に伝えるように心掛けていますが、文章化するにあたり、その性質上多少異なる場合もあります。尚、記事の掲載に誤りのある場合は講演内容を優先するものとし、お詫び申し上げます。
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