第28回講演(1/3ページ)
我が国の福祉政策「高齢化社会を迎えた福祉・介護ビジネス」
中野先生の講義を熱心に聞き入る
高齢化社会を迎えた我が国の福祉・介護
きょうのテーマが「高齢化社会を迎えた我が国の福祉政策と福祉ビジネスについて」ですが、福祉ビジネスについては始まったばかりで、データも十分ではなく、はっきり示せるかわかりません。日本が急速に高齢化が進んでいることはご存知の通りです。65歳以上の人口が2000年の実績で2227万人。総人口に占める割合が17・5%となっています。国連が昔、7%を超えるとオールドカントリーと言って、高齢化の社会に入ったと定義していました。7%を超えたのが1970年(昭和45年)ですから、ここから急速に我が国の高齢化が進んだことになります。
この原因には出生率の低下が挙げられます。子どもが3人くらいいた家庭が一人になってしまった。女性が一生の間に産む平均的な数が1.3人になってきています。2.1人をキープしていかないと、人口が維持できない。将来、高齢化が進むことが分かってきたのです。
国勢調査が5年に一度行われています。この数字がでてから、将来人口の推計を行っています。最近調査を行ってはいますが、新しい数字は未だでていません。平成9年の推計が今のところ、新しいものとなっています。これによると、2025年に65歳以上が3311万人となり、27.4%になると予測されています。
2050年くらいが日本の高齢化のピークになるとの予測で、この時が3245万人、32・3%と予測しています。3人に一人が高齢者ということになるわけです。かなり厳しい社会になると考えられています。
昔、私がスウェーデンに行った時、ストックホルムのデパートに昼間行っても、見かけるのはお年寄りばかりでした。若い人は学校か仕事をしている。だから、昼間時間がある人は高齢者ばかりになる。日本は昼間、若い人がいっぱいいるから、まだ大丈夫だなと思っています。これが3人に一人となると、子どもも含まれるから社会で扶養していくには、若い世代の負担が重くなると心配されているのです。
厚生労働省は、かつて厚生白書でも人生80年と謳っていました。平均寿命が長く、男女とも世界第一位となっています。個人差が大きく、老人の定義はキチンとはありませんが、社会通念上、一応75歳以上を後期高齢者とよんでいます。75歳で分けるのがいいかの議論が最近されていますが、確かに70代は非常に元気です。
スーパーオールドと言われる100歳以上も1万7000人となっています。後期高齢者が増えていくことで介護が必要な人が増えると予測しています。これが不安になっている原因です。寝たきり、痴呆率出現率も80歳代後半くらいから総体的に高くなってきています。長寿が増えれば介護が必要な人もそれだけ増えることが予測でき、これに対する対策を執らなければならないわけです。
要介護高齢者の推定を旧厚生省が介護保険導入のころに推計しています。これによると、2025年には寝たきりの人が230万人くらい。寝たきりでない痴呆の人が40万人くらいになるとされています。そして身体面に何らかの問題がある虚弱の260万人を入れると520万人くらいになると予測されています。長寿化と高齢化で将来的には介護が必要になる人が増えるだろうということです。
家族介護で今まで頑張ってきましたが、長寿化が進むと介護する方も高齢になります。90歳代の親を70歳代が介護すると言う現実があり、家族介護も厳しくなってくるわけです。途中、日本型福祉が言われ、家族介護を充実していこうとした時もありましたが、家族介護を過剰に期待し過ぎるのも難しいということになりました。これが介護保険等につながってくることになったのです。要介護の高齢者が増えることと家族の高齢化、そして女性の社会進出から考えても将来的には難しいと言うことです。
介護保険で福祉6法から福祉8法へ
初期から契約への高齢者福祉政策の展開で福祉の制度が介護保険で大きく変わりました。戦後、福祉国家が成立した時には公的な責任で、そして国民にとっては生きる権利として最低生活を保障する、それが福祉国家の根幹になっています。イギリスでは貧困は個人の責任だと厳しく問うてきた長い歴史があります。しかし貧困は必ずしも個人の責任だけではありません。失業、低賃金、病気などによる原因があることが分かってきた時に、生きる権利を保障していかなければならないと言うことになって、福祉国家が成立しました。イギリス等が成立させたのをみて、日本も福祉国家を目指しました。
当初はおカネの問題でしたが、おカネだけでは解決できません。孤独や社会的孤立への支援、フェース・トウー・フェースの直接サービスが求められます。そこの制度が社会福祉の制度が成立してきます。60年代に形ができました。その他の法律は、戦後、孤児、浮浪児がでて子どもが被害を受けていました。それで児童福祉法はいち早くできたのです。
戦地の兵隊だけではなくて、その他にも傷ついた人がでました。それで身体障害者福祉法もできました。昭和30年代に入ってから、精神薄弱者福祉法、これは名前が変わって知的障害者福祉法になりましたが、これもできました。高齢者、老人と母子福祉法、これは戦争被害の母子家庭問題の対策でした。これは子どもが大きくなって、巣立っていってしまって、母子及び寡婦福祉法と名前が変わりました。これを社会福祉6法と言って、社会福祉の制度と考えています。ここに介護保険が入ってきますが、介護保険はカネの保障の制度なので厚生労働省も各法律との区分けで苦慮しています。
生活保護はおカネの問題ですが、その他はサービスの問題なので、おカネを保障すると言う問題ではなかったので、おカネでは解決できない介護、孤独や孤立、精神的情緒的支援だったり、相談延長のところの問題が中心でしたが、介護保険はおカネの問題で福祉6法プラス精神保険も入ってきて、福祉8法になっているのか非常に微妙なところにきています。
この形が昭和30年代にできあがりましたが、基本的には低所得者を対象にしてきました。今までは家族が支えてきていたこともあって、高齢者の場合は家族の援護が得られない人を対象にしている制度でした。それが1970年代に入ると施設から在宅福祉へと移ってきます。これはイギリス等の影響も受けました。施設は生活の場としては不自然だということで、イギリスではタイムズなどに、残忍な扱いをされたなどと投書されて告発されました。看護士が罰金刑を受けたこともあって大変だったようです。
施設は山奥等にあり、隔離閉鎖の状況にあって施設の持っている悪い面が強調されました。そして在宅へと移っていきました。「カッコウの巣の上で」という映画があります。これも精神病者への残忍さの告発の映画でした。
在宅へと動いてくることで、家族の援助が得られない特定の人ばかりでなく、みんながサービスを必要とするように変わる根幹になってきます。家で、できるだけ今までの生活を続けられるようにしていこうと言うことで、対象が広がっていきます。在宅で延長していくことになると、公的な保険と福祉の連携が必要になり、公的なサービスだけでなく、地域支援を含めて援助しないと上手くいかないとかの問題がでてきます。ここからがこの連携で大きな転換点の一つになりました。在宅を中心にしていくことは、医療や福祉がお互いに連絡をとって援助していかなければなりません。福祉が質的に変わってきたと言うことです。
73年にオイルショックがありましたが80年代に入ると、臨調の行政改革で日本の国家財政の立て直しをしなければならない状況がでてきました。ここで日本型福祉が言われました。福祉のサービスが広がってきましたが、おカネの問題ではナショナルミニマム、国民の最低生活は何らかの基準を設けることはできるが、福祉のサービスになると各人の必要に応じたおカネで解決のできない援助だからどこまで公的援助をすべきかが問題になってきます。
明治学院の先生がドブ板福祉と言っていました。自分の家の前のドブ板が壊れたから直せと言う要求、声を大にすればサービスがされると言うような状況も、一部にはでてきていたと言うようなことがありました。
イギリスやスウエーデンでも、福祉国家が拡大されていった結果、これによるものかは分かりませんが、経済が悪くなっていきました。公的な部分が多くなっていくと活力がなくなってきます。イギリスの場合、民間の資本が外に逃げてしまって長期低落傾向になりました。福祉国家の危機が言われ、どこまで公的な責任でやるか、また、どのようにして活力を保っていくか議論されます。
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