第25回
2001.9.26 シャトレー・イン横浜
東海大学政治経済学部
教授 小林 逸太 先生

昭和19年、東京都生まれ
早稲田大学第一政治経済学部卒。日本勧業銀行勤務を経て
早稲田大学大学院経済学研究科博士課程修了

昭和51年から、東海大学政治経済学部に奉職し、現在に至る
昭和61年より現職 この間、
財団法人流通経済研究所特別研究員、
米国ワシントン大学経済学部訪問研究員、
英国ウェールズ国立大学カーディフ・ビジネススクール客員教授などを歴任

現在、早稲田大学大学院で流通システム論も兼任
専門は、産業組織論、流通経済論、経済政策論
政府関係の仕事としては、中央酒類審議会委員(新産業行政部会長、基本問題部会長)、石油審議会専門委員、中小企業近代化審議会専門委員などを歴任。現在、警視庁の「暴走族への加入防止等施策検討懇談会」座長も勤める


 

小泉構造改革の「痛み」とは?

 

 私は東海大学に奉職してから25年になる。この間、平成7年から3年間、就職部長をさせて戴いた。今もそうだが、大変就職難の時期であった。
 さて、小泉構造改革を産業経済学の観点からお話しようと思う。構造改革の案ができたのは5月。6月21日になって、経済財政諮問会議が草案を発表した。閣議で了承された日であったと思う。今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針というものだ。構造改革は国の財政問題全体に当然かかわってくる問題である。非常に複雑なものであることが第一番に言える。基本方針については、政府が一番に力を入れた方針にしてはいろいろと齟齬がある。もう少し理路整然と書かれていればというのが、第一印象だ。
 基本方針は序論の部分と本文とに分かれている。序論が非常に長い。一刻の猶予もなくやることをやる。そしてやるためのプログラムが序論部分に書かれている。本論には一章から六章まで具体的なプログラムが書かれている。私が予測するところでは、まず第一章から六章までが最初にできたと思う。そこで小泉首相に示したところ、恐らく「もっと大事なところを先にかけ」と言われて序論部分がさらに付け加えられたのではないかと理解している。そういう意味では慌てた作文といえるのではないか。
意地悪く、学者の立場から見るとそのようになる。

 「序論」とは書かれていないが、この部分で言われているのが不良債権問題だ。これを改革の第一歩として手掛けていくことが示されている。最初にだらだらと書かれていたのを、直させたのがこの部分ではないだろうか。

 具体的には7つの改革プログラムが書かれ、いろいろな方法、手段が示されている。政策プロセスの改革、財政の改革などが一通り書かれている。これが序論部分だ。それに続く本論部分が構造改革そのもののあり方が書かれている。
 第一章は構造改革と経済の活性化。社会資本の整備、社会保障制度の改革。地方と国の問題。そして財政のあり方。そして2002年度の経済財政運営の基本的考え方。このような内容になっている。

 構造改革はなぜ必要なのか。これは日本的な経済システムが行き詰まってきたことが第一に言える。戦後、日本型市場経済システムがその時々では非常にうまく機能した。「何はともあれ経済成長」が国民のコンセンサスとして認められていた。あらゆるものに優先して豊かになる。そのためにあらゆる手段が執られていった。そのために独占禁止政策は後ろに追いやられた。

 二番目には官僚の問題がある。官僚主導型の政策が長い間執られてきた。企画、立案、執行と、官僚が行政の重要なポイントを掴んでいった。これが経済成長一本やりの時はよかったし、非常に効率的であった。東大卒業の若い優秀な人が日本経済を動かした。

 三番目は既得権益の問題だ。日本型経済システムは豊かになるためと、そうなるためのプログラムを官僚が用意したことになり、自民党政権が長く続く間に利害関係が安定化していった。この結果、既得権益ができ上がっていった。今日の郵政の問題もそうである。

 経済成長、官僚システム、既得権益はどうしても日本経済の中心に居座って経済全体がうまくいかない状態に陥ってしまった。これを表現すると「行き詰まり」ということになる。学者の理論の上で、このような経済成長のシステムの中で政策運営することは大変に便利であった。それはケインズ型の経済政策が執られた。これは経済を放っておくわけにはいかないという考え方である。何でも政府がでて、景気の調整をしてみたり構造改革にも手をつけたりの介入主義だ。金融問題もそうだ。面倒をみることが正しい。そうしなければ恐慌になってしまうという考え方だ。であるから、理論的にも許され認められていた。さらにこのような時期が続くと政府が必要でないところにカネを費やすようになり、その分民間が圧迫されることになる。民間部門の圧迫は活力を削ぐことになる。こうなると経済活力は失われて、1980年代中頃には「民活」の話がでてきて規制緩和の問題がでてくる。これがピークに達したのが日米構造協議の時だ。
 この時、私は通産省の手伝いをしていて、時々刻々入る米国の情報を直ぐに読む。最初から米国は、規制緩和は米国のためでなく日本の消費者のためであると、盛んに言っていた。新聞はこのことを報道してくれていない。ただ米国が儲かるだけと、一部には報道されていた。スーパーマーケットの規制、つまり大規模小売店舗法の廃止が理論の中心にあったが、これもスーパーで米国から輸入した品物を売って欲しいからと、報道された。これには私はおかしいと感じた。しかし最後には規制緩和をして民間部門の活力を引き出すことが本当の意味で消費者にとってはいいことなんだと分かってくる。

 経済の活力は戦後日本の経済成長が大成功に終った反面、1980年代からはこのようなシステムはよくないとハッキリ分かってきた。特に日米構造協議ではこのことを強く指摘された。これを背景に、景気対策ではどうしようもないことになってくる。通常、経済政策は財政金融政策で、特に財政支出によって景気に刺激を与える。金融政策はマネーサプライのコントロールによって通貨の安定を図る。金利は公定歩合の調整によって経済をコントロールする。こういうことだ。基本的には量的な政策といえる。

第25回講演(2ページへつづく)