第16回
1998.7.22 シャトレー・イン横浜
東海大学政治経済学部
教授 望月 昌吾 先生

1939年 静岡県清水市に生れる
1962年 中央大学法学部政治学科卒業
1964年 同大学院法学研究科政治学専攻修士課程卒業
1969年 同博士過程退学
1971年 静岡大学講師、助教授、教授
1991年 東海大学教授(文明研究所、1997年政治経済学部)
1998年 政治経済学部政治学科主任教授(西洋政治史・福祉国家論担当)

なお、このほかに文部省在外研究員(ロンドン大学1977-78年)、静岡大学評議員(1986-88年)、中央大学(1974-98年)、東海大学(1986-91年)、静岡県立大学(1987-91年)等の非常勤講師


第16回講演(1/8ページ)

 

国際社会での日本の役割「イギリスからのメッセージ」

 

●イギリスにならう日本の政治・経済
 混迷を続ける日本政治をどう立て直すかを考える場合、イギリスの政治から何か学ぶことはないだろうか。日本を取り巻く内外情勢、特に日英間で、イギリスの政治の特長、制度的な違い、慣習的な違い、これを少々お話しし、そして戦後政治のイギリスの流れから何か学びとることがないか、そして具体的な提案はできませんが、私なりに最低限このことは必要であろうと言うことを申し上げてみたいと思います。
 経済の動きは不得手ですが現在私の考えているところをお話ししていきたいと思います。きょうの副題に「イギリスからのメッセージ」と付けさせて頂きます。これは、私の専門が戦後のイギリス政治のプロセスを追ってきましたので、従って他のことはあまり分らないというのが実際です。
 それともう一つ、これを考えたのは日本の政治制度、例えば議院内閣制を始めとして極めてイギリスの真似をして輸入しています。これは政治のみではなく、さまざまな社会制度、ルールなどイギリスからが多い。戦後はアメリカからの輸入が一番多いわけですが、郵便制度にしてもイギリスです。世界を回って感じると思いますがポストが赤いのは日本とイギリスくらいなものです。とりわけ政治では、明治以降の100年くらいしかありませんが、基本的に議会制民主主義、あるいは議院内閣制はイギリスから導入しています。
 ところが一番の違いは歴史の長さにあります。どうしてイギリスが議会制民主主義になったかと言えば、これは17世紀のイギリス革命によって今日のように議会主権の体制が生まれてきました。しかし、どうしてかは中世に源があります。現在のさまざまな権限、とりわけ衆議院の議員特権であるとか、予算先議権であるとか、こういうものは全てイギリスの14世紀くらいを中心として経験的に獲得されてきています。
 即ち、ピューリタン革命が起きる前に既にイギリスでは、形の上で今日のような平等選挙制度ではありませんが、当時の議会は貴族を中心とした二院制がキチンとできていました。近代的な議会が成立していたことが最大の理由だろうと考えています。それがやがて18世紀終りにフランス革命が起きました。海を渡って近代民主主義はイギリスに波及して改革をしていく。特に19世紀のイギリス政治のプロセスは「政治の民主化のプロセスの1世紀」であったと考えています。それが、だいたい19世紀の中頃以降に議会制と民主制がドッキングして議会制民主主義になっていったわけです。
 イギリスの議会制民主主義の歴史は極めて長く、約1000年近くになることになります。それに引き換えて、日本はたかだか100年です。もっと言うならば、明治憲法体制下では本当の意味での議会制民主主義ではありません。従って、戦後ということになるかも知れません。そうすると、たった50年しかありません。これが日英の最大の違いだろうと思います。そして、他方では現在の経済の混迷はさまざまなところで論じられていますが、何と言っても経済の立て直しが緊急の課題となっています。しかし、これもまたイギリスにならっているだろうと思います。
 今日の資本制経済、市場経済といいますか、経済学者によりますとこれはやや違うのですが、一緒にしてしまいますが、こうした経済システムが生まれたのもイギリスです。これが世界に波及しただけの話です。しかし、約10年前の1989年の東欧革命に続く一連の動きの中で、資本主義経済、ないしは市場経済メカニズムというものは絶対に経済のシステムとして強いんだということが証明されました。従って、これを導入したことは過ちではない、そして今後も基本的には、この経済システムを継続することは過ちではないと考えています。しかし、これもまたメード・イン・イングランドです。
 イギリスはこれをいち早く経験的に形成して19世紀のイギリスが世界の工場になっていきます。

 

●イギリスの衰退 今の日本と類似
 イギリスの経済的頂点は1870年で、以降今日に至るまで衰退の一途をたどってきたのがその軌跡です。10年ほど経ちますが、この考え方は世界システム論という議論で出てきています。ニューヨーク市立大のイマニュエル・オーラスティンという社会学者が提唱しているものです。まだ、理論的には完成していませんが「経済のグローバリゼーションによってそういう状況から各国ごとの経済の衰退や盛衰を一国レベルで捉えていては理解が不十分で、現在に適合するには、国際ではなく地球規模で物を考えないと駄目だ」と簡単に言うとそういう理論です。
 その世界システムが生まれたのは16世紀頃だと言っていますが、この考え方からすると、戦後イギリス経済の衰退、特に1960年代半ばにイギリス経済の衰退が著しくなって、イギリス病というものが流行りました。ちょうど今の日本と同じような状態です。七つの海を制覇して、世界大国の一つであったイギリスがとうとう1967年、当時労働党政権のウイルソンが初めて13・4%のポンドの切り下げを行いました。戦前の昭和10年代の始めに日本も円の切り下げをしましたが、言ってみれば世界のトップだったものが通貨の切り下げをする。これには相当の覚悟がいったと思います。かつ、IMFからの借入れもします。落ち込みも極まったわけです。そういうことを象徴的に「斜陽の帝国」と言われ続けてきました。
 イギリス病は何もイギリスだけに限定されたものではなく、イタリア病、フランス病と言われるような表現がなされています。つまり先進国病と言われました。しかしイギリスは少なくとも戦後に限って言えば世界のパワーでなくなってきたことは事実です。そして、戦後50年の前半、戦後30年は連続して非常に落ち込みました。そういう中から、果たして日本の再生に学ぶ点があるのだろうかと考えると、どうも否定的にならざるを得ないのかも知れません。
 しかし、私が観察するところでは、現在の日本に照らし合わせると、多いに学ぶ点があります。ましてや経済のレベルではなく、政治のレベルであると考えています。それについてお話していきたいと思います。

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