第14回講演(4/4ページ)

 

●健全な精神は健全な肉体に宿る。本当の意味は
 昨今、私たちは食べる物に困ることはありません。食べる物に不自由しているというニュースは単に北朝鮮だけの話です。一流といわれる雑誌をめくると生まれたままの女性の姿を掲載しています。ある一つの宗教団体の幹部が包丁でさされ死んでいく様が私たちの茶の間にとびこんでまいりました。食事をしながら「あーっ、凄い」死んでいく様を見せて我々の目を楽しませました。 レーサー、セナが激突し、死んでいく様を我々は茶の間でやはりビールを飲みながら「わーっ、すごいな」と言って楽しんでおりました。
 人間が死んでいく様を見て、我々現代人も何とも思わなくなったのです。食べる物に不自由しなくなると、かわった物、これを見たくなる。今日の私たちにも言えるのかも知れません。同時にユレナンスは「健全な精神は健全な肉体に宿ってほしい」このように言いました。我々が学校で習ったこととちょっと異ります。「健全な精神は健全な肉体に宿る」このように習いましたが、この言葉はテレビ、ラジオで言うことはできません。なぜなら、じゃあ、身体の不自由な人たちの精神は健全ではないのか、と言うことになるからです。
 ユレナンスが言ったのは、人と人との殺し合いを見ている人は健全な肉体を持っているけれども、決して健全な精神ではない。人間と人間の殺し合いを見て喜ぶ、これは異常だ。そこで「健全な精神は健全な肉体に宿ってほしい」こう言ったのであります。
 ところが人間と人間の殺し合いが、だんだん人々の抵抗でできなくなってきました。やめるべきだ。人と人との殺し合いを楽しむのは好ましくない。このように主張する人々がだんだん増えてまいりました。この人たちこそが自由、平等、博愛を唱える人々でありました。つまりキリスト教徒であります。
 原点に奴隷社会があったがゆえに、自由、平等、そして博愛という言葉を愛することになりました。私たちモンスーン地帯に住む人たちは、概ね仏教徒であります。風土が異なれば宗教が異なる。ところがこの「健全な精神は健全な肉体に宿ってほしい」という言葉は中世ルネッサンス、ヨーロッパで支持がなくなりました。それはヨーロッパでも騎士道が生まれたからであります。
 人を殺すための訓練を馬にまたがってやらなければならない。トーナメントという闘いの方法が普及しました。人を殺すためには己を正当化しなければならない。
 そこで「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉に変わったわけですが、この闘いも己の主君や国家を守るために、あの群雄割拠したヨーロッパで騎士道精神が生まれました。
 結局は己たちの国や領土、あるいは民族を守るためには己を捨てても闘わなければならない、勝たなければならないという考え方は、キリスト教の国々にありましても根付いたということです。そして砂漠地帯は多くの人々は熱心に働こうとはしません。いえっ、働く必要がないのです。泥と小石と草を水で混ぜて分厚い1メートルもあるような壁の家をただで建てることができるからです。
 水銀柱45度。水を外に置いておくと沸騰するような暑さは、その壁をカチカチに、日干しレンガのように硬くしてくれます。分厚い壁はその暑さを遮断してくれますし、砂漠の冬は何もかも凍てつくように寒い。マイナス20度、30度はあたりまえです。けれども、分厚い壁は寒さも遮断してくれます。
 そういう地域にありましてはイスラム教は栄えました。砂漠の地の文化は木の文化や石の文化ではなくて、泥の文化であります。
 イスラム教を信仰してまいりました。そして、そのイスラム教の人々のジハードを持つがゆえに、全ての人たちの持つ家、かつて持った武士道のような精神を今日も脈々と受け継ぎ、持っているという話であります。
 このように世界中の人々が国家のために、国民のために、己の民族のために、命を捨ててでも闘う。このような強力な思想を心の奥深く宿らせているにも関らず、悲しいかな武士道の元祖ともいえる、またそのように誇ってきた私たち日本人がそれを失っているなということに気付かれたと思います。長々としゃべりました。武士道と題してペルシャの騎士道をお話しさせていただきました。

 

この内容は1997年7月15日シャトレー・イン横浜で行われた講演を記録したものです。講演者の話の趣旨はなるべく忠実に伝えるように心掛けていますが、文章化するにあたり、その性質上多少異なる場合もあります。尚、記事の掲載に誤りのある場合は講演内容を優先するものとし、お詫び申し上げます。