「128年のDNAが高野の発展を支えている」

第60回 横浜望星倶楽部 講師交流会講演
株式会社 新宿高野 四代目社長・高野吉太郎

 明治18年3月に今の場所に新宿駅ができ、その年の10月、駅前に新宿高野が創業。その時は仲買や古道具屋を生業に、副業として季節季節で果物を扱った。明治18年の3月から12月までの新宿駅の乗降客は合計が僅か71人。平成23年には1日の乗降客が360万に達し、新宿駅はギネスで世界1に認定されるほどになった。

 新宿駅からほど遠からぬところに農地試験場としてできた新宿御苑がある。もとは信州高遠藩主内藤家の江戸屋敷であったところ。西洋文化を取り入れるなかで稲や麦、花、果物などの品種改良に役立てられたと聞いている。
 日本で初めてガラス張りの温室を造ったのも新宿御苑が初めてと伝えられている。このなかで私たちが今、商いをさせていただいているフルーツの改良が行われ、私どもにとっては大きな影響を受けたところとなっている。

 日本の果物の原点をつくりだしたのが農学者の福羽逸人(ふくばはやと)先生で、リンゴではふじりんご、イチゴではふくばいちご、ブドウではマスカット・オブ・アレキサンドリア、そして最高級のマスクメロンなどの品種改良を手掛けている。
 新宿が輸送手段の鉄道の拠点であること、そして新宿御苑で果物の品種改良などの研究が行われたことなどの影響によって、今日の私たち新宿高野があると言える。これが新宿高野の原点となっている。日露戦争後の好景気などによって下町から山の手へと住居や商売などの商業圏が広がってきて、この流れは私たちの商売にとって非常に有利にはたらいた。

 冷蔵庫がまだ一般的に普及していない昭和30年代頃、駅前には果物屋などの生鮮食料品を扱う店が多くみられた。これは朝早く始発電車と同時に商品を仕入れて店を開け、最終までに売り切らないといけない事情によるもので、果物はいわば駅前商売。新宿駅前が発展したおかげで私たちの発展もあった。

 本来果物は贈るものではなくて食べるものだった。明治以降、進物に果物を使うのは東京だけの風習だ。それを単なる土産ではなく、明治40年代にリボンをかけてきれいにしてギフトとして逸速く取り組んだのが私どもで、これによってギフトのマーケットが広がったと聞いている。

 明治天皇がヨーロッパを外遊される際に随行した乃木希典大将。これに同行した奥様の静子様から西欧文化のリボンとギフトの概念を教えていただいた。普通はリボンを平べったく結んでいるが、私どもはウサギの耳のように立てている。乃木結びと名づけて今も続けている。

 大正3年に入社の保坂という社員は、昭和53年の79歳になるまで現役で働いた。果物は手に取って、臭いを嗅いでみなければ、その良し悪しは分からない。しかし彼はメロンでもミカンでも一目見れば産地、食べ頃など、果物の良し悪しがすべて分かるほどの目利きだった。
 季節に出荷された果物は毎年産地によっても気候によっても味が異なり、美味しく扱える期間は僅かでしかない。この商売を10年20年やったからといって美味しさが分かるものではない。何を偉そうなことが言えるのか、と言うのが彼からの教えであり、そのお陰でフルーツを扱う私どもも今もって謙虚な気持ちでいられる所以だ。

 大正に入り、大正モボ、モガと言われるように、新宿はモダンな街になってきた。この時、関東大震災に遭い、逸速く震災から復興したのが新宿だった。震災の次の日からは秋葉原、築地の市場が開いたと聞いている。俺たちがやらないでどうすると、東京の台所を預かる先達が奮起し、江戸っ子の心意気を発揮した。小売りも頑張って、私どもも支援物資をだしながら営業を開始した。

 鉄筋の建物が流行り、私どもの本店も昭和12年には地上3階、地下1階のビルになった。表のお店部分は鉄筋、裏の帳場は木造で、この辺が商人と言うか、お客さま第1の配慮となっている。高野のロゴが使われ始めたのもこの頃だ。
 また、一昨年の東日本大震災には、先代、先々代が昭和44年に建て替えて4棟目になる地上8階、地下4階のビルも被害がなく、社員も落ち着いて接客などに対応していた。
 パーラーになっている5階はアーチ型の外窓になっている。以前のビルも同じようにアーチ型の窓を採用している。これは事業を継承する高野家にとって戦後生き延びたビルとして、またご先祖に対する尊敬の念と、商いへの信念とともに復興の息吹を忘れないための思い入れとして残している。

 戦後の昭和20年、焼け跡に残った私どものビルは22年までブラックマーケットの倉庫として使われていたが、その後、現地で営業を再開することができ、今日に至っている。

 昭和28年は未だ輸入統制がかかっている時代だったが、このとき個人でLC(貿易する際の信用状 letter of credit)を開いて輸入に対応し、商売をさせていただいた。
 昭和34年からはレディースファッションにも進出した。38年にはフルーツ部門でのチェーン展開を始めた。果物からケーキ、サラダ、クッキー、アイスクリームなどの食品販売の切掛けにもなった。
 39年の東京オリンピックで東京の街中が大きく変わり、新宿も駅ビル(ステーションビル)ができ物凄いパワーで変貌していった。そして昭和47年には本店の地価が路線価で1平米1633万円と日本一になり、日本一が10年間続いた。一時はバブルで1.5倍位にまで跳ね上がった。平成22年の路線価が1632万円であったことを考えると、35年間ほとんど変わっていないことになる。

 これらの間にワールドレストランを開き、ファッションもシンガポールに、そして伊勢丹や高島屋にも出店。食品の専門工場も建てたことがあった。昭和63年には新宿住友ビル内で果物のカルチャースクールを開設し、今はここを閉鎖しているが、カルチャースクールは本店で続けている。
 平成元年に、当時としては一日おいて果物が配送できる画期的な仕組みを大和運輸の提案で実現した。逸速く生鮮食品の配送に目をつけた大和運輸の配送システムに貢献する形となった。
 平成11年にはファッション事業部を廃止し、その代わりに今は本店ビルにグッチが入っている。

 高野家は祖父で2代目の芳之助も、3代目で父の芳雄も、ともに曽祖父で初代の吉太郎名を代々継いでいる。歌舞伎役者などの襲名と違い、戸籍上の届け(異議申立書)をだして吉太郎に変更している。私も平成17年に芳一(よしかず)から吉太郎を襲名し、新宿高野の四代目となった。私が当主吉太郎となってから128年、新宿の地で高野を守り続けている責任感の重さをヒシヒシと感じている。

 私どもの業態はマスクメロンを中心とした進物、ギフトを扱うフルーツ事業部門。クッキー、ジャム、ソース、ケーキ、サラダ、ジュースなどの食品を中心としたクチュール事業部門。そして一番美味しい時期に一番美味しい組み合せのベストタイミングで召し上がっていただくフルーツパーラーの3つの事業部門からなっている。

 私どもが最もこだわっているのがフルーツの食べ頃だ。フルーツは今やスーパーなどではセルフサービスとなっているが、セルフサービスでは本来の味は絶対に味わえない商品だ。私どもではベテラン社員が個々に食べ頃を見極めて提供している。マスクメロンなどは最も難しく、その商いの仕方が私ども高野とセルフ(スーパー)との違いになっているのではないか。
 6個セットのギフト商品などは、すべて食べ頃をセットする。6個のうちの一つでも品質に問題があれば、その一つを入れ替えるのではなく、6個すべてを替えて提供させていただいている。これがセルフで提供するスーパーとの大きな違いであり、私どものフルーツに対するこだわりだ。

 私どもはケーキ、パン、アイスクリーム、サラダなども提供しているが、もともとは果物屋であり、ケーキ屋のケーキ、パン屋のパンでは駄目という考えを持っている。
 戦後のケーキはバターが使われていて、イチゴにバターは合わない。私どもが戦後間もなく始めたケーキは日もちの点でリクスもあるがイチゴを美味しく召し上がっていただくために生クリームを使った。つまり、フルーツを美味しく召し上がっていただくためのケーキづくりを、以来心がけている。また、メロンパンもまわりにマスクメロンジュースをぬって、中身にマスクメロンのカスタードクリームを入れているのが特長だ。ほかのメロンパンとの違いをだすように、ケーキもパンも果物屋としての個性ある商品づくりを心がけている。
 また、ジュースにキューブ(氷)を入れると100%ジュースにならない。パーラーでは時間と手間暇がかかるがジュースを凍らせて氷をつくって、何処にも真似ができないノウハウで味も風味も損なわない100%ジュースを提供している。
 本店ではマスクメロンの専用ショップを構え、今日が食べ頃のもの、4、5日経って美味しいもの、また価格帯も幅広く揃えるなど、きめ細やかな対応を続けている。フルーツでマスクメロンは唯一桐箱に入る商品として取り扱っている。

 今までの仕事で上手くいかなかったり失敗したことのほとんどは、商品として手掛けるのが早すぎたことだ。もう少し遅ければと言うのが多い。ただ、形は残っていないがノウハウはDNAとしては残っている。

 企業は人なりで、新宿高野は会社として震災や日清・日露、第2次世界大戦、そして高度成長、バブル景気の時代をすべて経験している。このなか新宿高野の商いは先代の父から聞いた話しだけでなく、先々代の祖父、そして創業者である曽祖父が実際に手掛けてきた実績の数々で知ることができる。
 日々挑戦を続けながらも成功し、また失敗もした。この128年の歴史は、たとえば10年を経た会社には真似ができないし、128年と10年と、118年間の歴史の開きと経験の差は絶対に埋められない。その128年のDNAが私たち新宿高野には宿っている。

 最後に、私は1981年に松前達郎先生にご媒酌をお引き受けいただいて結婚できた。このご縁があって今回、東海大学の同窓会会長をお引き受けすることになった。そして本日4月25日は、期せずして私ども夫婦の結婚記念日だ。

 

 

この内容は2013年4月25日ホテル横浜ガーデンで行われた講演を記録したものです。講演者の話の趣旨はなるべく忠実に伝えるように心掛けていますが、文章化するにあたり、その性質上多少異なる場合もあります。尚、記事の掲載に誤りのある場合は講演内容を優先するものとし、お詫び申し上げます。